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ピュアな気持ちで音楽を楽しめるようになるまで

  

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 一番の趣味は音楽。40歳を過ぎて、初めて心から音楽を楽しめるようになりました。10代から現在までの音楽との関わりについてです。


中学時代からソウル&ファンク

 音楽に強く関心を持ち出したのは中学時代。当時、ラジオやテレビでは洋楽番組が割合多く放送されていて、よく聴いて(見て)いました。FM放送の番組を録音する「エアチェック」なんていうのに夢中になっていたのもこの頃です(懐かしい!)。

 聞いていたのは、ポップスのヒットチャート曲が多かったですね。クイーン、ジョン・デンバー、オリビア・ニュートンジョンなどがヒットチャートを賑わしていました。ビートルズも聞き出したのも、中学に入ってすぐの頃です。

 私が一番熱中したのはソウル&ファンクミュージックです。アース・ウインド・アンド・ファイヤーやスリー・ディグリーズなどがそのとき流行っていて、よく聴いていました。歌謡曲やポップスにはない、独特のうねるようなグルーブ感がたまらなかったです。


ライブのあとは朝までどんちゃん騒ぎ?

 高校に進むと、フュージョンがお気に入りの音楽ジャンルに加わりました。外国ミュージシャンでは、クルセイダーズ、リー・リトナー、ウエザー・リポートなどが、日本のミュージシャンでは、渡辺香津美、高中正義、ネイティブ・サン、カシオペアなどが絶頂期でした。

 高校のときは、同級生とバンドを組んで、何度かコンサートもやりました(私はキーボードを担当)。1時間半くらいのステージを2部構成でやっていたのですが、前半はピンク・フロイドやドゥービー・ブラザーズといった“定番ロック”を演奏し、後半は高中正義の曲を何曲か演奏して、アンコールでCharの“シャイン・ユー・シャイン・デー”をやるというのがパターンでした。

 コンサートチケット代は、300円とかの安い値段だったと思います。友達がたくさん来てくれて、収支は黒字でした。コンサート終盤のアンコール直前、客席にいた全然知らないおじさんが、いきなり1万円札をかざしながらステージに駆け寄り、“おひねり”としてくれたこともありました。コンサートが終わると、会場近くの喫茶店を貸切状態にして打ち上げ。ホールのレンタル料と打ち上げ代を払ってもまだお金があまったので、酒とおつまみを買い込んで、バンドメンバー全員が、コンサートでミキサーをやってくれた人の家になだれ込み、夜更けまで盛り上がっていたこともありました(まだ高校生なのに)。


有名ジャズ喫茶でバイト

 大学生になると、音楽に携われるバイトに就きました。中野に住んでいましたが、近所に、ジャズ好きの間では有名なオーブレーという店(昼は喫茶店、夜はパブ)があり、そこで昼間の時間帯にアルバイトを始めました。飲食店でのバイト経験はありませんでしたが、開店前の準備から食料の買出し、接客、厨房とすべてを任されました。

 店にいるのは私とバイトの女の子だけ(と言っても私もバイトですが)。私が厨房で料理を作り、女の子がオーダーを取ったり料理を運ぶという役割分担で、実質、私が昼の時間帯を任されている形でした。

 オーブレーはフュージョンが聴ける店として有名で、当時発売されたばかりのレーザーディスクも店内に設置されていました。好きなレコードやレーザーディスクを自由にかけることができ、それが何よりの楽しみでした。

 大学2年のとき、高円寺に引っ越したので、バイト先も高円寺で探すことにし、フュージョンやジャズのミュージシャンがたさくん出演していたライブハウスの次朗吉に連絡してみました。するとしばらくして、バイトの大学生が就職活動で働けなくなるから、その人のかわりに働かないかと言われました。こうして次郎吉でバイトすることになりました。


ライブハウスにバイト転職

 次郎吉での仕事は、オーブレーと同じように開店前の準備や食料の買出しから、オーダーをとったり飲み物を運んだりといったことです。ライブが始まるまでは忙しいのですが、一旦始まってしまえば何もやることはなく、ミキサー室のブースの中で、じっくりとライブを見ることができました。

 ライブは連日、有名ミュージシャンが目白押しでした。日本のジャズ・フュージョン界を代表する超一流ミュージシャン、坂田明、村上秀一、本田竹広、峰厚介、古沢良治郎、松木恒秀……、数え上げればきりがありません。ブルースのライブが多かったのも次郎吉の特徴。上田正樹、憂歌団、ウェストロード・ブルースバンドなどといった、これまた超一流ミュージシャンが演奏していました。

 次郎吉はライブが終わると午前2時ごろまでパブタイムとして営業していました。多くのミュージシャンが演奏後も店でお酒を楽しみ、営業が終わると常連のお客さんや次郎吉スタッフといっしょにそのまま深夜の高円寺の街に繰り出す、ということが日常茶飯事でした。何件か飲み屋をはしごし、明け方近くに散会するということも珍しくありません。私も何度も明け方まで飲みました。

 高校時代、レコードやテレビでしか知らなかったあこがれのミュージシャンと、ごく自然に話している。それを改めて意識すると、とても不思議な気持ちでした。ある晩は飲みすぎて家に帰れなくなってしまい、高円寺に住んでいたピアニストの本田さんのマンションに泊めてもらったこともありました。次郎吉で一流ミュージシャンのライブをシャワーのように浴び、あこがれのミュージシャンと親しく話すことができたことが、今でも自分の音楽の大きな糧となっています。


ピュアな気持ちで音楽に向き合える

 社会人になると、だんだんと音楽からは遠ざかり、20代の終わり頃になるとほとんど音楽とは縁のない生活となりました。理由は、仕事に追いまくられ、精神的な余裕がなくなったからなのですが、それ以上に大きな理由だったのが、学生のときのように、純粋に音楽を楽しめなくなったことでした。

 学生時代、できれば音楽の道に進みたいと考えていました。でも、好きな音楽を仕事とすることに、自分の中で気持ちの折り合いがうまくつけられませんでした。大好きな音楽を大切にしたいという気持ちと、ビジネスとしてシビアに音楽に携わっていくことの着地点を見つけようとすると、思考停止状態になってしまったのです。その状態はその後20年間続きました。

 しかし、40歳を過ぎて自分の会社を設立し、事業(といっても小さな事業ですが)として音楽と向き合うようになると、この悩みは、不思議と霧が晴れるようになくなりました。学生のとき以上に純粋に音楽と関われるようになり、初めて心から音楽を楽しめるようになったのです。43歳からはボサノバギターを弾き始め、今では毎晩最低1時間は練習しないと落ち着きません。

 ボサノバ、ジャズ、ファンク、クラシック、フラメンコ、マヌーシュ・スイング(ジプシー音楽)……、音楽の幅も若い頃とは比べ物にならないほど広がりました。演奏とは作曲家との魂の触れ合いであることも実感しています。今は週末に妻と楽器店にいくのが一番の楽しみです。これからも音楽との関係は一生続いていくことでしょう。

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