代表プロフィール
当社代表の蓬田修一です。 蓬田 修一
●ライター&コピーライターとして、雑誌、新聞、WEB、フリーペーパーなどへの記事執筆、広告コピーライティング多数。
●現在、株式会社M&Cメディア・アンド・コミュニケーションの代表も兼ねる。
ライター&コピーライターとしての実績
趣味は音楽 10代から現在まで、音楽とは長い付き合いです。
「生い立ちから書いたので、長い文章になってしまいましたが、
よろしければ読んでみて下さい」
いうことを聞かず、手に負えない子ども
小学校の先生も怒り狂う


 1962年、栃木県佐野市に生まれました。母や親戚の話によると、幼稚園や小学校低学年の頃の私は、近所でもまずいないような“きかん坊”で、いつも棒切れを振り回して、外で遊びまわっていたようです(うっすらと記憶あり)。

  小学校2年生のとき、担任の先生に対してあまりに反抗的な態度を取り続けたため、興奮した先生が放課後、教室用の室内履きをはいたまま、家までおしかけてくるということもありました。

 当時、私の家は小学校の真裏、道路一本隔てただけの場所にありましたので、授業が終わると一目散に家に帰り(と言っても道路を渡るだけ)、家の外からランドセルを家の中にほうり投げて(本当です)、その場に待っている友達と風のように走り去り、遊びまわるということを繰り返す毎日でした。

 先生が家におしかけてきたときも、当然、私は外で友達と遊んでいました。母が玄関先で対応していたのですが、私が遊びから帰って、家の近くの曲がり角から見ると、先生が怒り狂って母に話しまくっている光景を、今でもはっきりと覚えています。

 私は仕方ないので、近所を一回りして時間をつぶし、また曲がり角から様子をうかがうのですが、相変わらず先生が怒り狂っているので、また近所を一回りと、なかなか家に帰れませんでした。

 夕方、日もすっかり暮れてから家に帰ったのですが、母は私を叱ることはありませんでした。それよりも、私がいかに手が付けられない子どもだったかを、このエピソードも含めて笑い話にして語ることが、後年、結構ありました。母の性格は大らかというか何というか、それを私も受け継いでいると感じることはあります。

中高時代から中国語に関心
大学で中国文学を専攻


 思わず子どもの頃のことを長く書いてしまいましたが、その後は地元の中学・高校(佐野高校)と進み、二松学舎大学中国文学科に入学しました。

 どうして中国文学科に進んだかというと、小学生の頃から漢字が好きだったことと、私が小学校高学年から中学生にかけて、日本では日中国交樹立を受けて、中国ブームという空気があったことが原因だと思います。

 本当は、東京外大の中国語学科にいきたかったのですが、当時、共通一時試験と呼ばれていた入学試験は5教科7科目もあり、高校時代、勉強そっちのけでバンド活動やクラブ活動に精を出していた私は、とても7科目を準備する時間はありませんでした。

 そこで私立大学の中国語学科を探したのですが、「中国文学科」は有名大学をはじめいくつもあるのですが、中国語学科はあまりなく、あったとしても田舎の高校生にとっては聞いたこともない大学でした。

 二松学舎大学もそのとき始めて知りましたが、中国文学科でありながら、「中国語コース」を設けていて、語学教育にも力を入れているというので受験することにしました。

 受験のとき、下見で大学を訪れてみると、場所は千代田区三番町、皇居のすぐ近く、東京のど真ん中にあるのに、近所には緑もあり落ち着いていて、ここなら気分よく学校に通えそうだというのが気に入りました(当時の私にとって、大学の授業内容とともに、学校の立地条件も大きな選択基準のひとつでした)。

 それと、当時は筆記と面接の両方の試験が必須で、大学でありながら、ひとりひとり面接するというのも、学生を大事にしている印象を強く受け、ここにしようと決めました(まだ受かってもいないのに)。

寄り道が多かった20代
でも人生に無駄な回り道はない


 この調子で書いていては、なかなか現在までたどり着けませんね。ここからはグッとペースをあげたいと思います。大学卒業後は、台湾YMCAの語学学校で日本語教師になりました。YMCAで働いたといっても、私はクリスチャンではありません。職員はクリスチャンであることが条件だったようですが、語学教師は必ずもクリスチャンである必要はありませんでした。台湾YMCA(私が赴任したのは台中でした)では、主に社会人を対象に、日本語の初級から上級クラスまでを受け持ちました。

 帰国すると、台湾華僑が経営する商社で営業マンになりました。この会社は輸出がメインで、食品以外なら何でも売るという節操のない会社でした。(節操ないというのは冗談です。食品以外何でも売るというのも、立派な戦略です。この会社の社長さんの名誉のために言っておきます)。社長が台湾人なので、輸出相手先も台湾の会社が非常に多かったです。

 日本と台湾を行き来する商社の仕事も面白かったのですが、どうしてもやりたい仕事がありました。それは出版や放送といったメディアの仕事でした。そこでメディアの仕事への就職活動を開始しました。

 しかし、これまでメディア業界での経験は皆無です。いくら「未経験可」という応募条件でも、正攻法では「面接−不採用」を繰り返す可能性が高いに違いありません。そこで、仕事を得るには、まずどんな形でもいいから、この業界に入りこむことが重要だと考えました。

 そこである教育関係の企業の出版部門にアルバイトで入りました。しかし、配属されたのは出版部門ではなく、営業マンの下働きのような部署に回され、悶々とした気分で毎日を過ごすことになりました。

 いくら不満があっても、生活費をかせがなければいけませんから、アルバイトといえどもすぐに辞めるわけにはいきません。悶々としながら、何とか現状を打破できないかと模索しつつ、その一方で会社内のアルバイト仲間には「メディアの世界で働きたい」ということを、雑談のたびに話し続けていました。

 するとバイト仲間の女性が「私が以前働いていた出版社で、今、人を募集しているから、話を通してあげる」といってくれたのです。それがきっかけで出版社に入社することができ、念願のメディアでの世界でスタートを切ることができました。

ようやく出版社に入社
好きな世界で仕事ができるも……


 入社したのはイベント関係の業界新聞や本を出している出版社でした。出版という仕事もイベントという業界も始めての体験で何も分からず大変でしたが、やりたかった編集の仕事ができるという喜びはとても大きかったことを覚えています。この会社では編集の仕事以外にも、広告営業や書籍の販売促進などもやり、それらが今の自分の基礎をつくっています。

 この会社には約5年間勤めました。楽しかったことも多いのですが、不満もありました。それは、この会社は極めて独自のやり方で出版物をつくっているということでした。ほかの出版社で働いた経験はありませんでしたが、他の多くの出版社や編集プロダクションとはまったく違うやり方や考え方で出版物を出しているということは、年月を重ねるにつれ明らかになってきました。

 どこの会社でも多かれ少なかれ独自のやり方で仕事を進めているのは理解していましたが、このとき私は生涯、メディアの世界で生きていこうと決めていましたから、ほかの会社のやり方をまったく知らないということは、ものすごく不安でした。

出版業界の実情をもっと深く知りたくて退社
あえて茨の道を進む!?


 そこでこの会社を退職することを決意。フリーライターとなり、いくつもの出版社や制作会社、また一般企業のマーケティング部門などに出入りし、出版業界や制作現場の実情を身をもって体験しました。2001年には、当社の前身である「ドゥ・メディア」を創設し、編集プロダクションとして出版物の制作をしたり、販促物やWEBの広告コピーを手がけるようにもなりました。

 この間、私自身もイベント専門ライターとして、雑誌やWEBに執筆したり、ライター志望者に向けた「ライター養成講座」を、1年間ほぼ月に1回開催したりしました。このライター養成講座は、お蔭様で参加者からは好評で、自分の経験がほかの人のために活かせる−−ということを知る大きなきかっけになりました。

 そして2006年9月に、事業基盤であるドゥ・メディアを会社組織にするとともに、社名を株式会社M&Cメディア・アンド・コミュニケーションに改め、現在に至っています。

 フリー時代に結婚。妻の実家が船橋なので、結婚直後は鎌ヶ谷に居を構え、2004年からは船橋に住んでいます。

 最後のほうが駆け足になってしまい、語り尽くせない部分が残ってしまったのが残念ですが、ひとまずここで筆を置くことにします。最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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